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2008年10月

2008年10月31日 (金)

■地味だが素晴らしいページ

情報を検索していて、良質のページを発見したのでご紹介しよう。一見地味だがその実、歯ごたえのあるページである。特に「専門家向け記事」はまさに専門家向けであり、「インフルエンザ」の記事だけでも基礎から詳細まで記載されている。平成20年度のワクチンの株に関しても記述があるので比較的新鮮な情報だと思われる。

http://www1.ocn.ne.jp/~nisimura/index.html

「西村医院」という、京都にある一般の医院のようだが、非常によく勉強されているのだなあと頭が下がった。もちろん一般向け記事もあり、その中には「インフルエンザ」もあったので、一読の価値あり。

それにしても「専門家向け記事」の歯ごたえは相当で、はっきり言って「インフルエンザ」以外はよく分からなかった・・・院長が書いているのか副院長が書いているのか分からないが、大変な博学である。ご専門は院長が内科、副院長が皮膚科とあったが、いやそれにしても大変な情報量であった。時間のある時に別途拝読するとしよう。

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2008年10月29日 (水)

■インフルエンザワクチン無用論者の根拠に見る一面の真理

世の中には「インフルエンザワクチンは効かない」という医師の方もいる。どうしてそのように言えるのか、調べてみた。その結果、とても興味深い事が分かった。

世の人々はインフルエンザワクチンは感染予防の為に接種すると考えているだろうし、実際僕もそう思っていた。しかし現実には違っていた。現在のインフルエンザワクチンは感染後の発症抑止及び重症化を防ぐ目的で接種されるのである。

この理解には「抗体」の理解が必要となる。「徳島大学分子酵素学研究センター 木戸博教授」のご説明文を読むのが一番分かりやすいのだが以下に要約する。

現在のインフルエンザワクチン接種によって体内に産生される抗体は、中和抗体「IgG抗体」であり、これはほとんど血液中に産生される。このためウイルスの増殖している気道粘膜にはそのうちのごくわずかがしみ出すにすぎない、よって感染を抑止できない。加えて「IgG抗体」は反応の特異性が高く、ウイルスの型が異なれば作用しないのだ。このため現在のワクチンは効かない等と言われてしまうのだ。

本当に必要な抗体は「IgA抗体」である。この抗体は粘膜上に分泌されるため感染自体を阻止できる可能性が高い、また反応の特異性が緩やかなために型が少々変化しても十分に反応するという決定的な利点を持つ。

国立感染研の報告書のリンクを以下に示す。経鼻投与型インフルエンザワクチンの開発に取り組んでいる事と、「IgA抗体」の優位性について述べられている。文中でアジュバントの試験を行っている事が示されているが、この報告書は2007/7月の物なので今はどの程度進んだのか?そこまでは分からない。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/07/dl/s0713-12c_0001.pdf

ざっくりとワクチンの目的を探っているうちに、「IgG抗体」を求めている現在のインフルエンザワクチンが、否定的な悪口を言われても無理はないなと感じた。

最後に上述の木戸博教授が2005年に述べている抗生物質「クラリスロマイシン」の粘膜免疫強化についての報告についてご紹介する。マウスを使用した実験ではクラリスロマイシン投与4日目以降、急激な「IgA抗体」の上昇を認めたとある。IgA 分泌にも関係すると推定されるIL-12(インターロイキン) が感染4日目で有意な増加を、炎症を引き起こすサイトカインの中で、感染2日目に急上昇するTNF-αを軽度抑制、感染6日目で増加するINF-γを抑制している事が明らかになったとも記述されている。「クラリスロマイシン」は本来抗生物質(販売名:クラリシッド)であるが、上述のようなサイトカインへの薬理作用も持つようである。

http://medical.radionikkei.jp/abbott/final/pdf/050422.pdf

結局の所、「IgA抗体」をどうやって獲得するかという点に課題は絞られる。新しい「IgA抗体」獲得型ワクチンにおけるアジュバントの模索と安全性の検証が現在為されているのだと信じたいものだ。

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2008年10月27日 (月)

■何のためにパンデミック対策をするのか?

何のためにパンデミック対策をするのであろうか?社会秩序の維持とか死亡者の抑制とか、色々な切り口で語られている。でも結局僕達個々人にとって、一番大切なもの「家族」を死なせたくないというのが単純な目的なんじゃないだろうか?社会秩序の維持とか食料の確保等は手段であって、目的は各個人がおのおのの家族を守るという事に尽きるのではないか?

文明は発展しすぎて、身の丈を超えてしまっている。そして一度その快適性を味わったら自ら戻ることは普通しない。だから今の利便性を維持しようとする。

H5N1という分かり易い仮想敵が姿を消しつつある。H5N1ですら官主導のパンデミック対策は具体性を持ち得なかった。ここで主役が姿を消しては一体どうなる事か・・・やはり万能ワクチンの経鼻接種が待ち望まれる。

人類が疫病を欲しているのか?疫病が人類を欲しているのか?両面ともあり得る話だと僕は思う。カタルシスは社会構造の劇的変化を促す。大戦の無かった60余年、人類文明は今、それを求めているのかもしれない。

僕は例え万能型ワクチンが開発され、長い臨床試験を通過して、実際に接種可能になったとしても、パンデミックは避けられないと思う。地球人口全てにワクチン接種などとてもできないからだ。ワクチン接種にありつけなかった人々は感染し、その中でパンデミックが起こる。全人口のうち無視できない人々が罹患するだろう。

そのように感染した人々の体内で、また想定外のウイルスの変異が起こるのだろう。従来変異しないと思われていた部分がきっと変異するのだ。このような事を数回繰り返してインフルエンザは本当の小児病になっていくのではないかと僕は思う。麻疹、天然痘、おたふく風邪の発生当時から現代までの推移を見ていると、インフルエンザがパンデミックを見なくなるのにはもう少し(100年位か?)かかる気がする。例によって、これは何のエビデンスも無いただの仮説であるが。

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2008年10月23日 (木)

■新型インフルエンザ疲労

H5N1という格好の仮想敵が姿をくらましている。このまま消え去るのか、嵐のように戻ってくるのか?誰も分からない。だが、この格好の仮想敵が目の前から消えることによって生じる悪影響の一つに「新型インフルエンザ疲労」の加速度的進行があると僕は思う。

もともと「新型インフルエンザ疲労」は以前から指摘されていた、際限の無い緊張の持続によって、警戒度の高い人ほど緊張度が維持できなくなってしまうといった現象であった。それが仮想敵の消失によって加速度的に蔓延する恐れがある。そしてそれら最前線の人々を失って、後方の民衆はより所を失い、右往左往、一喜一憂する事になり、まがい物の防疫商品や備蓄セットなるものに飛びついたりするかもしれない。

H5N1が減少して、目立たなくなって来ているということは、「新型インフルエンザ」からしてみれば好都合な状況なのかもしれない。この事の意味をきちんと理解すべきである。

H5N1=新型インフルエンザでは無いことを決して忘れてはならない。

新型インフルエンザは又深く静かに潜行した・・・先ほどまで見えていた潜望鏡にはH5N1と書いてあったのに・・・今はもう何も見えない。今どこにいるのか、今度いつどこに浮上するのか、どういう型に変わるのか、それは誰も知らない、恐らく彼ら自身もそれを知らない。

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2008年10月22日 (水)

■いささか脱線

当家では季節性インフルエンザワクチンの接種を予約済みである。来週妻子が接種で、11月始め僕が接種予定である。H5N1に対するディフェンス・コンディションはどうやら下げてもよさそうである、しかし他の型への注意は引き続き十分必要である。そこへ来てこの金融恐慌前夜の状況である。今できる事はできるうちにすぐにすべきで、それが季節性インフルエンザワクチン接種だと僕は思う。

昨夜のテレビを何とは無しに見ていたら、ボビー・オロゴン氏が面白い事を言っていた。子供達にナイジェリア風の教育を行うというのが主旨のようだったが、彼は子供達が食べ終わった茶碗だったか?にさらに飯を盛ったのである。子供達は「もう食べ終わったのに何故?」といぶかる。ボビー氏は憤然と「おめえ、次の飯いつ食えるか分からないのに何言ってるんだ!」とのたまった。

正直僕は唸ってしまった。これがナイジェリアの教育だと言う、ついでに「食わしておけば何とかなる」というのも彼曰くナイジェリア風教育らしい。納得せざるを得なかった。実に実践的である。朝食の次は昼食、その次は夕食と決まって出てくる可能性は100%ではないのである。だから「食べれる時に食べておけ」というのは当を得ている。これも「備えよ常に」の体言だと僕は思った。

「食わしておけばなんとかなる」というのも実に当を得ている。ごはん、魚、漬物、味噌汁、日本人ならこれらをきちんと規則正しく食べさせておくだけで十分教育になると僕は思う。もちろん国によって伝統食は異なるだろうが。伝統食にはそれぞれ意味があるのだ。

イヌイットの人々にはアザラシの生肉を食べるという伝統食がある。それが昨今のグローバル化の影響で食の欧米化が進んでおり、伝統食が減少傾向だと言う。これは出典は「NHKスペシャル」であるが、その結果は意外にも骨密度の低下であったという。何故か?

彼らイヌイットは有色人種である、有色人種が住むには彼らの土地アラスカは緯度が高過ぎ、紫外線が少なすぎる、紫外線が少なくても骨密度を保てるように彼らの先人達はアザラシの生肉からビタミンDを十分取る事を後世に伝えたのである。さらに生肉にはビタミンCも豊富であり、冬場の壊血病も予防できる。これはノルウェーのナンセン氏も学んだ点である(当時まだビタミンCは発見されていなかったのにだ)。

伝統食にはかように意味がある。我が国の伝統食だって十分意味がある。魚と味噌汁と漬物を食べているだけで十分な食育になる事は今日では広く知られている。金融恐慌前夜、このような伝統食と身の丈にあった生活への回帰は必要不可欠であると僕は思う。

今日はいささか脱線してしまった、ご容赦あれ。

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2008年10月17日 (金)

■ペストは怖いがインフルエンザは覚えていない?

歴史上に残っているインフルエンザの流行は93回、そのうち15回は世界的流行(パンデミック)だったようである(あくまでも歴史に残っているという点に注意が必要であるが)。しかし今日我々はほとんどインフルエンザパンデミックの恐怖の記憶を失っている。これは何故だろうか?

天然痘、ペスト、コレラ、梅毒、ハンセン氏病。これらに対する世界の恐怖感は拭いがたいレベルで存在している(もっとも天然痘は根絶宣言が出されているが)。これらの疫病とインフルエンザに対する感覚の違いは一体何であろうか?

一つは流行期間である。上記の疫病は何十年も時には数世紀も世界を脅かし続けてきた。それに対してインフルエンザは長くても足掛け3年程度で燃え尽きてしまう。甚大な人的被害を出したとしても、結果として「あれは何だったのだろう」という程度で終わってしまったのではないだろうか?

もう一つは上記の疫病が引き起こす外見上の醜い変化である。これは人々の記憶に強く残るに十分な要因である。これらに比較してインフルエンザは圧倒的に短期間に、しかも風邪のひどい程度の症状で感染者が死亡してしまうのだ。これでは人々の記憶に残らなくても無理は無いと僕は思う。

僕はH5N1の時代は終わりつつあると思っている。しかしH5N1は人類に非常に大きな貢献をしてくれたと思う。すなわちインフルエンザをなめてはいけないという教訓を与えた事である。家禽を100%殺すようなインフルエンザウイルスの存在は、かえって人類の忘れかけていた恐怖心を呼び覚まし、結果的にワクチン技術の劇的発展を招来した。H5N1は家禽の間ではパンデミックとなったが、人類に対する感染力は非常に弱かった、そしてその弱点を未だに克服できないでいる。

ただしこれは新型インフルエンザの発生を否定するものではない。どのようなウイルス型のどの株が次のインフルエンザ・パンデミックつまり新型インフルエンザを引き起こすかは分からない、そしていつ起こるかも分からない。そういう意味で「いつ起きても不思議ではない」という表現になる(結果的に)。そして、現在我々がとらわれている「鳥の死亡」というマーカーも、一つの参考にはすべきだが、全ての新型インフルエンザが鳥の死亡を伴うと思い込んではいけない。最も恐るべきは、鳥にほとんど無害で、人類に有害なウイルス型においてパンデミックが発生することである。そしてパンデミックが発生したとしても冷静にその毒性/悪性度を見極める必要がある。即ち致死的なのか、それとも風邪のひどい程度で済むのかという事である。

新型インフルエンザという言葉が一人歩きし始めて久しいが、本当の新型インフルエンザならば、上述の疫病がまだ疫病であった時の如く、成人を効果的に倒すはずだ。そういう意味で新型インフルエンザは恐ろしいのだ。補充が容易でなく、かつ社会の中枢を担う世代を効率的に倒してしまうから恐ろしいのである。

1957年のアジアインフルエンザ以降はワクチンが介入し始めている。この効果なのか、それとも毒性の低さなのか不明であるが、世界で数百万人程度の死亡者で済んでいる。1957年のアジアインフルエンザはH2N2亜型ウイルス、1968年の香港インフルエンザはH3N2亜型ウイルスのパンデミックとされている。僕にはこれら二つのウイルスの毒性と感染性が低かったとしか思えない。とてもワクチンが効果的だったからとは思えないのだ、何故なら当時十分量の人口に対してワクチンが接種されたとはとても思えないからである。そしてスペインフルH1N1も同じく弱毒型である。しかしだからと言ってあの惨憺たる結果をもたらしたのはワクチンが無かったからという一つの事実に帰結させていいものだろうか?

ここで、はたと気がついたのだが、スペインフルのウイルスは何故ヘマグルチニンもノリラミニターゼも「1」なのか?単にそのウイルスそのものを捕らえた初めての機会だったから「1」なのではないか?そう思って見ると、1957年はH2N2でヘマグルチニンもノリラミニターゼも変異したのだ、1968年はH3N2でヘマグルチニンのみ変異してノリラミニターゼは変異しなかったのだと思えてきた。このような変異がこれまでにヘマグルチニンで16種類、ノリラミニターゼで9種類見つかっているに過ぎないのではないか?つまり我々はまだまだインフルエンザウイルスの変異に数をつけているに過ぎないのではないか?と思えてきた。現在ではヘマグルチニンとノリラミニターゼのみならず「クレード」と呼ばれる小変異まで追いかけており、H5N1だけでクレードは10に分かれている事まで追えているが、ヘマグルチニンとノリラミニターゼの変異だけで144種類もあり、これにクレードが例えば10種類となると1,440種類以上は存在するという事になってしまう。

正直追いきれるのか?という気持ちになる。やはり完全に適合するワクチンの接種は不可能で、交差免疫を期待して接種するという事に事実上なってしまうと僕は思う。それでも人類はインフルエンザワクチンの変異を追いつづけなければならない。彼らの変異した姿に少しでも近い場所を見ていなければならない。インフルエンザという非常に不安定な存在との戦いの本質がそこにある。

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2008年10月15日 (水)

■マスク偽装の発生

僕が所属する会社に「新型インフルエンザ対策キット」DMが届いた。A4版の厚い封筒で、ご丁寧にも「N95マスクサンプル」なるものまで添付されていた。そのDMにはこうも書かれていた、「N95マスクは品薄で、年内納品は難しい状況です」

う~ん・・・とうなってしまった。こういう事を許しておいて良いのだろうか?と。

まず第一に添付されてきたマスクはN95とあるが、それが保証されていない。第二にマスクは副次的なもので、それがベストチョイスではない。第三に「品薄」という脅し文句を安易に使用して良いのか?という点である。

大体自分で品薄と言って置いて、DMにN95マスク風のものを添付してくるのは、逆に滑稽ですらある。こういう商法を放置すると、普通の不織布マスクに「N95」と印刷するだけで、1枚数百円で売れるというマーケットを創出してしまう。一発当ててやろうと考えている人ならやりかねない商法だ。大体N95は米国の規格であるから、そのマスクが本当にN95規格を満たしているかどうかなんて、国内行政は無関心だろうし、そもそも我が国がN95ですと言う資格が無い。新たな偽装「マスク偽装」の発生である。

このマスク偽装はたちが悪い。一つは上述の通り、N95規格であるかを試す機会が無い事、事実上書き放題である。もう一つは、N95マスク絶対説の醸成である、「N95マスクを備蓄してあるから大丈夫」という危険な安心感の育成である。彼ら(DMを送ってきた会社)は新型インフルエンザのパンデミック抑止が目的では無く、防疫用具で儲ける事が目的だからたちが悪いのである。そして本当にパンデミックになった時に、偽装されたN95マスクを付けて人々が市街を歩き回ったら、「なんだ案外息苦しくないじゃないか」と感じて、「うん、これなら安心、快適」と思ってしまうのか?

それはそれで良いのだろうか?いやいや、やはり偽装は良くない。それは詐欺行為である、しかも命に関わる詐欺行為である。

余談であるが、以前「支那産うなぎ」を国内で複数業者を経由させて「国産うなぎ」として販売した問題が報道された時、読売新聞が「うなぎロンダリング!」とでかでかと紙面に掲載しているのを見て爆笑してしまった。うまい事を言うものである。

「うなぎロンダリング」は面白いが、「マスク偽装」は命に関わる。国内にもマスクの性能基準はあるのだが、今一つ知られていない。いきおい米国N95神話に行き着くのである。N95を上回る遮蔽性と快適性を持った国産マスクの開発を強く望むものである。わが国の技術力をもってすれば可能なはずである。そしてきちんとした基準を定めてお墨付きを与える必要がある。マスク市場は放置状態である。偽装、詐欺の温床となり得る。マスクの防疫性を否定しても市民はマスクを必ず求める。ならば性能の線引きは必要である。同時にマスクは発症者がすべきであって、健常者がそれで感染を防げるものではないという事と、N95は苦しくてせいぜい2~3時間しかつけていられない事を明らかにすべきである。N95神話は崩しておく必要がある。それより手洗い神話の方が100倍建設的であると僕は思う。

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2008年10月12日 (日)

■経済と疫病と・・・

米国で今冬用季節性インフルエンザワクチン接種が例のドライブスルー型で始まったそうだ。以前にも米国ではパンデミック対策として一度実験を行っているから、やはりやったかという感覚である。それにしても米国は凄い。理由はよくわからないがとにかく合理的である。実行力がある、良いとなったらさっとやってしまう。ドライブスルーワクチン接種など、わが国ではとんでもないと一笑にふされるのみであろう。

それにしても国家というものの巨大さを改めて思い知らされる。米国はリーマンのCDS破綻に端を発する、経済の大量破壊過程にまさに今入っている最中であるのに、一方では上記の様に先進的な試みも実行されている。国破れて山河ありといった所だろうか。

我が国は米国の核の傘に固執して、かの国と心中する覚悟であるようなので、米国のデフォルトは我が国の存続も脅かす。現在70兆円分保有している米国債が紙くずになってしまえばわが国もデフォルトせざるをえないだろう。少なくとも支払の停滞を起こし、わが国の国債金利は上昇するだろう。僕は疫病と世界史の関連性を多少理解した。そしてそれらを踏まえて考えてみると、人類の個体数つまり人口は、実に様々な理由で上下していると感じるのだ。それはある時は疫病の蔓延であるし、ある時は国家の支配関係であるし、気候の劇的変動の事もある。

一体新型インフルエンザに備えて何が得られるのだろうか?とふと疑問に思ってしまった。金融恐慌による貧困層の大量餓死と疫病による大量斃死と何が異なるのだろう?今回の金融恐慌など、ほとんど世界的ねずみ講の破綻に等しい。最初から時間の問題なのは分かっていたはずだ。レバレッジ効果が逆に作用して、正確な損失金額すら算定できない状況で、経済はますます冷え込む。物流が停滞すれば、貧困層が真っ先に影響を被る。いんちき商品のやり取りで世界は支払いきれない借金を知らずに背負ってしまった。そのツケを世界中の人々に払わせる事になるのだ。一体人類は何をやっているのだろうか?

疫病は、その原因となるミクロ生物にとって、宿主が適当な濃度で存在するようになって、自らを効率的に繁殖できるようになる時を待っている。すでに人類はこの適当な密集状態をとっくにこえているし、それでも疫病の発生を90年間抑え込んできた。しかし家禽の密集という経済的効率化に伴う疫病発生の危険を、人類の欲望は抑止できなかった。自由主義経済はその名の示すような自由では決してなかった。実際には欲望と発展の義務という恐ろしい概念に支配されることであって、それは疫学上好ましくない、家禽の密集というような過去のタブーも易々と破ってしまう。

思い上がった人類は、自らが常にミクロ生物から狙われている事も忘れて金儲けに明け暮れた。ちょうど体調管理を怠って働き詰めた中年サラリーマンが成人病で倒れるように、人類も本業がうまくいかずに弱ったところを狙い澄ましていたミクロ生物にやられるのかもしれない。その時人類は自分たちの種「人類」が疫学上も等身大を上回る誤解した強さしか持っていなかった事を思い知るかもしれない。悲しい事だ。

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2008年10月10日 (金)

■疫病と世界史

現在、「疫病と世界史:ウィリアム H.マクニール著」を読んでいる。下巻の中程であり、日本語訳が難解な事からいささか困難を感じているが、実に興味深い本だ。何故ハンセン氏病が終息していって、ペストが流行しだしたのか?何故スペイン人は少数の軍勢で南米を征服できたのか?歴史学者である著者が、疫病との関係性を訴えている。

本ブログとは主旨が異なるとお思いかもしれないが、意外に学ぶべき点が多い。例えば、全く未知の新しい感染症が人類において感染爆発した場合(当時の表現から現在の疾病名と紐付けるのは困難だが)、最悪の地域では100人中1人~2人しか生き残らなかったという記録もあるのだ。もちろん同書ではその定量的表現が厳密かどうかについてもある程度の疑問は持っている、しかし人口の半分が死滅したり、集落が丸ごと消滅したりといった現象はいろいろと記録に残っている事は確かなようだ。それらの感染症は結局成人での免疫獲得と言う形で、小児病として人類と共存していく、麻疹(はしか)、水疱(水ぼうそう)、耳下腺炎(おたふく風邪)がそれらである。

重要なのは、そういう新しい感染症の嵐が吹き荒れた後の人口の回復についてである。同書では「人類」という一つの「種」の個体数という意味において、大胆なそして明白な事実を記している。すなわち「乳幼児の補充は比較的容易であるが、成人の補充は数世代を要する」という事である。これは考えてみれば当然の事だが、現代では口にするときっと問題化する内容であろう。しかし人類の個体数というマクロな視点に立って考えてみれば真っ当な見解だと僕は思う。

そうすると一番守らなければならないカテゴリーが見えてくる。それは「子供」と「子供を産む可能性の高い若い世代の夫婦」である。次世代を担う子供を一時に大量に失うのは非常な痛手であるし、それらを産み育てる世代の喪失はさらに痛恨である。

この考え方は、人間一人一人が持っている尊厳や人生の意味と言った形而上学的な事柄を一切無視して、単純に種としての個体数を論じている。この考え方に異論のある方も多いだろう。しかし一つの考え方として考慮すべきだと僕は思う。

次のパンデミックインフルエンザがどの程度の致死性を帯びるかは分からない。いつ起こるかも分からない。しかし人類と疫病は太古から共存し、双方ともなんとか折り合いをつけて今日まで生き残ってきた(天然痘を除く)。そう考える時、人類は未知の感染症に対して謙虚になるべきである。HIVやSARSの二の舞を演じてはならない。どれだけ公衆衛生学やウイルス学、医学全般が発展進歩しても疫病もまた進歩しつづけるのだ。

こう考えてくると、結局「最小の被害で乗り切る為にどうするか」という現在当たり前のように言われているパンデミック対策スローガンに戻って来ている自分に気づく。しかしこの思考の過程で僕は一番守らなければならないカテゴリーという物を自分なりに理解する事ができた。現在厚生労働省で募集中のパブリックコメントにこの事を記述したが、このような極論が受け入れられるかどうかは「不明」である。

厚生労働省
新型インフルエンザワクチン接種の進め方について~パブリックコメント募集
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=Pcm1010&BID=495080162&OBJCD=100495&GROUP=

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2008年10月 2日 (木)

■パンデミック対策としての肺炎球菌ワクチン接種の是非

拙ブログで以前、僕の肺炎球菌ワクチン接種記録を記述した。詳細はそちらを見ていただきたい。さて僕はパンデミック対策の一つとして肺炎球菌ワクチンを接種したのだが、後遺症こそ無かったとは言え、1.5日間39.5度の発熱と接種部の腫脹が発生し、すでに免疫を持っている成人の接種が危険を伴うというドクターの警告を裏付ける結果となった。この事は十分に注意喚起したい、「成人の肺炎球菌ワクチン接種は危険である」と。

また別の問題として、免疫が十分に有効である期間が5年程度である事を考えると、パンデミック対策としては、いつ接種すべきか?という問題が付きまとう。何しろこのワクチンは一生に一度しか打ってはいけない事になっているのである。

「成人の場合、肺炎球菌に対する免疫を既に獲得している可能性が高い」という文章的表現では、同ワクチンがカバーしている23種のうち、どの型に対する免疫を獲得しているかは不明である。全部に免疫を持っていたのかもしれないし、一部かもしれない。

さらに注意すべきなのは、このワクチンを接種したからといって全ての肺炎を防ぐ事はできないという点である。ここまで書いてくると、肺炎球菌ワクチンの接種は無意味に思われるかもしれないがさにあらず。

幼児(2歳~9歳位かな)、65歳位以上の方には検討の余地ありであろう。また成人においては、完全に危険な行為であるから全くお勧めできないが、どうしてもというならご自身の判断で・・・という事になる。いずれにしても免疫の有効期間は5年程度であるから、いつ接種するかは、あたかも悪事の現場に踏み込む警察組織のような、周到な情報収集と判断が求められる。そしてその責任と結果は全て本人に帰するのだ。

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